使徒行伝を詠むと、一つの傾向がある。それは、イエスキリストの神の子としての神性を表す 名称を執拗に何ヵ所にわたって否定し、神の僕と言い換えていることである。
Act_3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜わったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすことに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。 his Son Jesus
Act_3:26 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。 his Son Jesus
Act_4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、 thy holy child Jesus
Act_4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」 thy holy child Jesus.
他にも存在するが、要するにネストレアーラントでは、イエスキリストの神性ではなく、人性を強調したいのである。
もしそうならば、ヨハネの最後にある、イエスを神のこキリストであることを信じ、それによって命を得るためである。という言葉は空文化してしまう、もしくは読む者の確信を弱めることが目的であると思うのは勘ぐりすぎであろうか。
Joh 20:31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
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